スミセイと人
阪神・淡路大震災から30年~あのとき・あれから~②支社編
阪神・淡路大震災から30年。
職員は当時、何を感じ、どう動いたのか。
そして今、何を想っていらっしゃるのか。
今回は、東京西支社 吉田支社長にお話しを伺いました🎤
※吉田支社長は震災時、阪神支社 神戸営業部 芦屋支部で営業職員として在籍されていました。
前回の記事はコチラ↓
https://newsletter.sumitomolife.co.jp/sumisei/83650/
〇当時の状況、想い
Q:震災が発生した瞬間の様子や、その後の状況について、教えてください。
A:震災当時、私は兵庫県尼崎市※1に住んでいました。
※1 尼崎市では当時震度6を観測
地震が起きた瞬間は、下からバンっと突き上げるような、家にダンプカーでも突っ込んできたかのような衝撃でした。
その後、家全体が「ミシミシ」という音とともに大きく揺れ、台所のほうから「バタン!」、「バリバリッ!」という音が響きました。揺れは収まっても、何が何だかわからない状況。
テレビもつきません。
恐る恐る外に出ると、3軒となりの家が崩れていて、電柱が倒れ、道路が浮き上がるように割れていました。
感情が、というより何をしたら、どうしたらよいかという、ある種パニックになっていました。
ご近所さん同士それぞれ同じ状況で、どなたかが車のラジオで聴いた情報でようやく地震が起きたことを知ったんです。
当時、震災に対して意識がありませんでした。
阪神地域で、そんな大きな地震が起きるなんて思っていなくて、正直何の備えもできていなくて・・・。
地震によってライフラインは止まり、日常生活は奪われてしまいました。避難所生活までは至らなかったものの、家は半壊状態。電気は翌日復旧したのですが、水が出るまで1週間、ガスは1か月もかかり、困難を極めました。
お手洗いに行くことも、食事を取ることも、ままならない状況です。水がありませんので。
幸い、目の前の学校に避難所があったので、お手洗いを借りたり、乾パンをもらいながらの生活となりました。
また、お風呂にも入れなかったので汚れたままです。ただ、後日出社した際なども、汚いとか気になりませんでした。むしろ避難所生活されている方々を多く目の当たりにしていましたし、私と一緒に住む家族も全員無事で、
「ただただ、生きていてよかった」とそれに尽きます。
Q:震災後、変わってしまった街並み、風景を、どのように心に留めていますか?
A:当時ニュースの映像として残っているのは、神戸市役所の姿。6階部分がつぶれていたり、渡り廊下部分が崩れていたりと、衝撃的な映像でした。震災は早朝だったので、これが日中だったらと考えると・・・。
先ほど申し上げた3軒となりのお家が倒壊していた話も、見た時は、目を疑いました。兵庫県内の様々な建物や建造物の形が変わってしまいましたし、住んでいた街の変わり果てた姿に、怖いというより想像がつかないという感情です。30年経った今、ライフラインが復旧したタイミング、いつから日常に戻れたかみたいな記憶は薄れていったりしますが、そうした見た光景はまったく薄れないんです。
写真でも撮ったように、鮮明に覚えています。
(写真左)当時の神戸市庁舎の6階部分がつぶれてしまった様子
(写真右)ビルの渡り廊下部分は崩れてしまっています
※いずれの写真も提供は、神戸市より
Q:震災後の出社や仕事の再開、その後の活動などはいかがでしたか。
A:当時の神戸営業部芦屋支部で入社2年目でした。震災の時は支部ではなく大阪すみれいへ研修に行っていたので、大阪に出社していました。
※震災後の3月から神戸営業部 芦屋支部に出社
大変な状況でしたが、「会社に行かなきゃ!」という想いがあって、会社に何度も、何度も電話をかけたのですけど、繋がらず・・・入社が浅かったので、もしかしたら、無断欠勤になってしまうのではないかという、変な不安もありました・・・。
家の中にいるのもただただ怖くて、でも職場のみんなの状況も知りたい。きっと、この状況や気持ちを共有できる場所、安心がほしかったのかもしれません。
でも結局2日間は会社と連絡できず、会社にも行けず。3日目にようやく出社できました。
大阪すみれいのオフィスは変わりなかったのですが、ようやく出社できたこともあって皆さんに心配していただきました。特に、当時の課長がお水を準備してくれていて。2リットルのお水を、毎日2本頂いて家に持って帰っていました。本当に有難かったです。
「こんなにも大切にしていただけるなんて」と、会社と周りの皆さんの気持ち、声掛けに感謝の気持ちでいっぱいでした。
大阪すみれいで、兵庫県に住んでいるメンバーの何人かはまだ連絡がついていない方もいました。
一週間ほど連絡がとれない方もいましたが、その後全員と連絡がとれたので、当時ホッとしたのを覚えています。
大阪すみれいでの研修を終えたあと、3月から支部に帰任したのですが、最初は募集活動ができませんでした。
とにかく保全活動でした。
支社から地区リスト(地区ごとのお客さまリスト)をいただき、各職員手分けして以下の手順で安否確認を行いました。
① リストに登録されている家へ電話をかける
② つながらない方は家に直接行く
③ 家がなくて会えない人は避難所等へ探しに行く
今でこそ当たり前のZOOMもLINEWORKSもなければ、携帯電話もない時代です。
今と違い、会いに行くしかありませんでした。
私は幸い家がなくて会えない方はいなかったのでリスト全員の安否確認はできましたが、人によっては家がない、親戚の家に避難していて連絡がつかないなど、行方不明の方が多くいらっしゃったと聞いています。
この保全活動は約半年くらい続きました。支社総出で、お客さまのために。こんな時だからこそ、地域も、各企業も「がんばろう、神戸」といったスローガンのもとに、みんな奮起していたと思います。
私たちも、「We Love KOBE」と背中に書いたウインドブレーカーを着て、タオルなどをもって、「お役に立てることはないですか」と企業や避難所を回って、とにかく保全手続きなどできることをしました。
私個人としては・・・、当時入社して浅かったこともあり、「お客さまから嫌われたくない」「クロージングって難しい」、そんな想いが強くて遠慮しながらの提案が多かったんです。でもご契約のお客さまの中には亡くなってしまった方もいて、突然明日がなくなってしまうこともあるんだと、痛感しました。
この震災を機に、提案時に私自身が後悔しないように、そしてお客さまも後悔させたくないという想いから、お会いする瞬間、一回の面談を大切にするようになりました。
震災を経験され、保険の必要性を感じていただいた方が多かったこともあり、苦手だったクロージングも早くできるようになりましたし、それが今の私の使命感にもつながります。私たちにできるのは、真剣にお客さまと向き合うこと。30年経ち、働く場所は変わりましたけど、今もその想いだけは変わっていません。
Q:被災されたお客さまとの関係、お客さま対応の中で心に残る、印象的なエピソード(感謝の声など)があればお聞かせください。
A:神戸市のお客さまが、家屋の倒壊によりお亡くなりになりました。
保険金のお支払い後、「父の保険金で家を建て直すことにした。このようなこともあるので自分もきちんと保険に入っておきたい」とご夫婦で来店してくださいました。ご主人も既加入者で見直しされたんです。
そしてご加入から約20年経ったとき、奥さまからお電話があり、「主人が亡くなったので手続きをお願いしたい」と連絡がありました。
お手続きに伺った際、「スミセイさんのおかげで父の家も建て直せたし、そしてこれからも安心して生活できそうです。」というお言葉をいただきました。
偶然にもその日は1月17日。震災の日でもあり、お父さまの命日でもありました。
20年前に直されたお家にお伺いし、お仏壇に手を合わせ、そのあと慰霊祭が行われている神戸市の東遊園地に行ってろうそくを立て、お亡くなりになられた方々にも手を合わせてきました。
これが保険の役割、お役に立てるということ、1つのお支払いがつながっているということを強く感じました。家が立ち直り、安心して暮らすことができる。息子さんが入院された時もお役に立つことができ、亡くなられた後も奥様の生活を助けることができました。
保険の大切さ、その役割を、この経験を通じて今も支部朝礼などで話しています。当時は損保が販売できなかったけど、今はしっかりカバーできますし、死亡保険金も本当に大切です。保険本来の価値、意味をこれからもしっかり伝えていきたいです。
Q:当時、住友生命が災害給付金の免責不適用(全額支払)をいち早く決定したのはご存じでしたか?
A:今ほどネットなどで伝わるような時代ではありませんでしたので、新聞で知りました。
決定を知った時は本当に嬉しかったですし、早くお客さまに伝えたなきゃって思いましたね。
本社の方々に感謝しかありませんでしたし。スミセイで働いていてよかったと心の底から思いました。
Q:この経験で、支社長の中でどんな変化をもたらしましたか?また当時の経験を振り返ってどのような想いを抱いていますか?
A:私自身も被災しましたが、家族・親戚みんな命があり、半壊ながらも家も無事でした。
なので、当時は今出来ること、お役に立てることは精一杯やろうと思い活動に励みました。
マイナスな感情が働いたことよりも、この仕事の大切さ、保険の役割を改めて痛感しましたし、「お役に立てることはないですか?」と常にお客さまに寄り添えるような意識を持ちました。きっとこれが仕事の根幹であり、大事な言葉としてこの言葉を胸に日々過ごしています。
また、当時の震災ではお役に立ちたくても、お役にたてないこともたくさんありました。
地震保険の付帯率は10パーセントもない時代。住めない家のローンも払っていて二重ローンも起きてしまったり。
私たちにはあの時、損保がなかったので、お役に立ちたいのに立てないのは本当につらかったです。
今は損保も含めお役に立てることはたくさんあります。
いろんな便利ツールを使って、お客さまと接する機会を増やすことができます。
今の時代だからこそ、できる価値というものをしっかりお客さまに広めていきたいです。
そして、「お客さまから嫌われたくない」「クロージングが苦手」という話を先ほどしましたが、震災を経てからは「プロとしての誇りをもってお客さまのお役に立つ仕事をしよう!」と自分のスローガンをつくり、30年間変わらぬ想いで、やりがいを感じながら仕事をしています。これは忘れることはありません。
私も、お客さまも、後悔のない仕事をしたいと思ってやっています。
震災後に避難所に行けば、「探してたのよ!」「会いに来てくれてありがとう。」と声をかけてくださったお客さまが何人もいました。
大変な状況の時に「ありがとう。」と言われる仕事が保険です。
毛嫌いされる時もありますが、必要とされている、必要とされる瞬間は必ずあるんだと思っています。
あの経験があったから、30年以上もやりがいをもって仕事を続けることができたのかなと思いますが、正直もう二度とあんなことは起こってほしくありません。
でも、またあるかもしれない。明日が来ないかもしれない。そんな想いで、お客さまと接していかなきゃと、
心に刻んで過ごしています。
Q:最後に、当社職員のみなさんへメッセージをいただけますでしょうか。
A:保険は、お客さまが安心して生きていくための大切な宝物だと思っています。
海外では、生命保険はラスト・ラブレターなんて言われますが、保険があれば本人もご家族も困らないし、
万一のことがあっても、安心して過ごすことができます。
保険の意義・役割をなかなか分かっていただけないこともありますが、Vitalityを含め、
「私たちだから出来ること、私たちにしか出来ないこと」がたくさんあると思います。
大切なことを一人でも多くの方々に伝えていくことが、私たちの使命だと思います。
「プロとしての誇りと使命感を持って」、よりよい未来に向け一緒に取り組んでいきましょう!
吉田支社長、ありがとうございました。
当時の状況、想い、大変な状況を乗り越えてきた中で積み重ねられた使命感に、インタビューを通して心を打たれました。
次回は、神戸支社の方のインタビューをお届けします。
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